2010年01月09日

三輪山登拝と寺社陵行脚

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
本年も、どうかひとつ適当にご覧遊ばせ下さい。

今年も元旦から精力的に鳥居くぐりしています。

今回は前回断念した大神神社の御神体、三輪山登拝(登山)と
前回行けなかった寺社、陵、古墳と、これまた精力的に行脚してきました。

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      大神教会入口にある三柱鳥居
090914桧原神社拝殿.jpg
          桧原神社の三つ鳥居

1月6日の早朝、大神神社に到着して、まず拝殿裏の三つ鳥居を社務所で申し込んで見せて頂きました。自分の予想では大神神社の大神教会入口にある三柱鳥居のようなものを想像してましたが、見たら通常の明神鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせた、桧原神社にある三つ鳥居とほぼ同じ形の鳥居でした。拝殿左側の回廊から数分チラッと覗かせて頂く程度で、また神聖な鳥居の為、写真撮影は御法度でした。

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     狭井神社の登拝申込所
100106三輪山入山覚書.jpg
             ここから入山

さて今から登山ではなく三輪山登拝となるのですが、入山するには登拝口にある狭井神社の社務所に登拝申込(入山料300円)をして、入山証明書になる鈴のついたタスキを首から掛けて登ります。往復2時間程度で標高は467mの山ですが、年配者のハイカーでも無理なく登れる山です。途中、苔むした神の憑依である磐座や、注連縄が巻かれた神木が現れ、古神道、山岳信仰を思わせ、神の山を歩いているのだという実感が沸いて来ます。山頂には奥津磐座(おきついわくら)、中腹付近には中津磐座(なかついわくら)、山麓付近には辺津磐座(へついわくら)があります。しかし神奈備の禁足地ゆえ、こちらも写真は御法度です。



下山後、大阪府富田林市太子町にある寺社陵へ向かいました。




新西国客番 磯長山 叡福寺(しながさん えいふくじ)

本尊:聖如意輪観世音菩薩
開基:聖武天皇

創建年:神亀元年(724年)
御詠歌:磯長(しなが)なるみ寺もいまもうまやどのみこのみたまはしずまりてます

100106叡福寺扁額(岸信介書).jpg100106叡福寺南大門.jpg
扁額(第56代総理大臣 岸 信介書)         南大門

叡福寺は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳があることで知られている。山号は磯長(しなが)山、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は聖武天皇ともいい、聖徳太子または推古天皇ともいう。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「中之太子」野中寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つに数えられ、「上之太子」と呼ばれている(Wikipedia)

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       三骨一廟形式の聖徳太子墓
100106聖徳太子御廟看板.jpg
   正式名 推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓

聖徳太子がこの地を自らの廟と決め、推古28年(620年)に墓所を造営。翌年、太子の母 、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子と妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られ、三骨一廟とよばれている。 同年太子の没後、推古天皇が陵墓を守る為に寺を建立したと伝わる。


磐船大神社(いわふねだいじんじゃ)

主神  饒速日命他十柱
摂社  豊受大神他五柱
 

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扁額
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      本殿(この裏に御神体の磐座がある)

車でこれ以上行けなくなる所に、役小角(えんのおずね)が開いた高貴寺という寺があり、そこに車を駐車して、鬱蒼とした山中を10分ほど歩くと、猪避け用の電熱線が張り巡らされた境内が出て来ます。御由緒には船の形をした磐座が48個あると書かれているように、境内には大小の石が山の斜面にゴロゴロしています。さすが、ニギハヤヒが十種の神宝を持って岩船に乗って天降ったと伝えられている場所。「天磐船」「浪石」「燈明石」などの奇岩怪石があり、磐座の下から霊水が湧く場所もあります。社務所も無人?で、誰がこんな山中の神社に来るのかと思ってしまいますが、元々は葛城神道の発祥地で、昔は今よりも敷地も広く、大変賑わいがあった神社だったそうで、今でも熱心な信者さんが講を作って守っているそうです。この日も拝殿やすべての磐座の前に「神宝」という名のお酒が何本もお供えされていました。

100106磐船神社由緒.jpg
御由緒
100106磐船神社磐座.jpg
            磐座



他にも太子町には歴史的な史跡が山ほどありました。


100106推古天皇陵看板.jpg
           推古天皇陵
100106推古天皇陵.jpg
正式名 河内国磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ 考古学名 山田高塚古墳)
100106小野妹子碑.jpg100106小野妹子墓.jpg
            遣隋使の大使 小野妹子の墓


金山古墳

ここは太子町ではなく、隣町の河南町です。

100106金山古墳の双円古墳.jpg100106古墳内部の石棺.jpg
 左側の囲いの中に石室があります 古墳内の石室に2つの石棺がありました

金山古墳(かなやまこふん)は、大阪府南河内郡河南町芹生谷(せるたに)に存在する古墳であり、全国的に珍しい双円墳。国の史跡に指定されています。誰の墓かは未だ不明だそうですが、この古墳は円墳の上に登ったり、古墳内の石室に入って、石棺を目の前で見る事ができます。

100106双円墳.jpg
南側円墳から北側円墳を望む
100106金山古墳上からの夕日.jpg
古墳上からの夕日
                          


今日は最高気温5度で、底冷えのする1日。最後は一番のお楽しみ?
太子町の太子温泉でゆっくりと鎮座させて頂きました。千円はちょっと高いんちゃう?

100106早く入りたい太子温泉.jpg











posted by 鳥居釣師 at 18:58| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月30日

辛国神社と誉田八幡宮

今日は、年も押し迫った平成21年の12月30日。

今年最後の神社行脚は、羽曳野は古市古墳群にある
応神天皇の御陵付近に鎮座する2座の神社に参詣して来ました。




辛国神社(からくにじんじゃ)



091230辛国神社.jpg
           茅の輪が準備されている参道
091230辛国神社拝殿.jpg
                  拝殿


主祭神 

饒速日命=瓊瓊杵命の御兄で物部氏の祖神。
天児屋根命=藤原氏の祖神。
素盞鳴命=天照大神の弟神。

相殿

誉田別命=第15代応神天皇。
市杵島姫命=素盞鳴命の子。


091230辛国神社扁額.jpg091230辛国神社千ノ輪くぐり.jpg
         扁額            「蘇民将来」と唱えながら八の字に茅の輪をくぐる

今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社。日本書記には「雄略13年春3月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とあるが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思われる。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、辛国氏が祭祀をつとめ辛国神社と称するようになった。三代実録には、清和天皇「貞観9年2月26日河内国志紀郡辛国神社を官社に預る」とあり、元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神、天児屋根命を合祀したと伝えられている。




誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)




091230誉田八幡宮から応神天皇陵を望む。.jpg091230誉田八幡宮鳥居.jpg
     放生橋とその奥が応神陵              鳥居





主祭神

誉田別命=第15代応神天皇。
仲哀天皇=第14代天皇で応神天皇の父。
神功皇后=仲哀天皇の后で応神天皇の母。


091230誉田八幡宮.jpg091230誉田八幡宮拝殿.jpg
          鳥居                    拝殿

創建は559年。応神陵の後円部を背に応神天皇を祀る。全国で4万社を超えると言われている八幡神社の中では最古の八幡宮で、もとは墳墓の頂きに社殿があったとされている。9月の秋祭りには、国宝の神輿が境内にある放生橋を渡って、応神陵古墳に渡御する「お渡りの儀式」が行われる。
創建当時より朝廷・幕府からの庇護が厚く、武神として崇められた。現社殿は豊臣秀頼により再建。宝物館には源頼朝寄進の国宝「塵地螺鈿金銅装神輿」、丸山古墳出土の「金銅製透彫鞍金具」など多くの宝物が所蔵されている。





何時ものように神社行脚の終わりは、冷え切った体を温めるべく
湯屋の露天風呂にどっしりと長時間、ご鎮座させて頂きます。  
あぁ〜気持ちエエ!これに限るぅ...


御陵天然温泉「亀乃湯」
御陵温泉 亀の湯.jpg

さて、来年はどこの神社から参らせて頂こかな?
平成22年も宜しくお願いします。



明日は氏神さんにでもご挨拶してこよか...



 
posted by 鳥居釣師 at 23:52| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月13日

丸山大明神(まるやまだいみょうじん)


丸山大明神(まるやまだいみょうじん)

御祭神 住吉仲皇子(すみえのなかつみこ)

091113丸山大明神.jpg

091113丸山大明神とは.jpg

住吉大社の南側の民家の中に「何でこんなとこに?」と思ってしまうのが、この小さなお社「丸山大明神」です。写真の説明を読んでもらったら分かると思いますが、実はこちらの御祭神の住吉仲皇子(すみえのなかつみこ)は大変高貴な御方で、壮絶な人生を送った方でした。

091113丸山の庭の説明.jpg
赤い矢印の部分が丸山(丸塚)で、その横の大きな敷地が当時の住吉大社。
091113丸山の庭.jpg

住吉仲皇子(すみえのなかつのみこ、すみのえなかのおうじ、仁徳天皇24年(336年)? -仁徳天皇87年(399年))は、古墳時代の皇族。 第16代仁徳天皇の皇子で、母は磐之姫命。仁徳天皇87年(399年)、兄17代履中天皇の婚約者黒媛を天皇の名をかたって犯してしまう。兄の報復を恐れ、先手必勝 曇野連や淡路海人らの力を借りて、履中天皇の住む難波高津宮に火を放った。しかし運があったかその日、宴で泥酔していた履中天皇は、物部大前が中心となって馬に乗せて密かに宮から脱出させる。不在を確認することもなく、住吉仲皇子は難波高津宮を焼き討ちにした。

石上神宮に無事逃げ延びれた履中天皇は、すぐさま弟の瑞歯別皇子(後の18代反正天皇で住吉仲皇子の弟)を呼び、住吉仲皇子を殺害すよう命ずる。悩んだ瑞歯別皇子は、住吉仲皇子の側近で前から顔見知りであった隼人(ハヤト。ヤマト王権の支配下部族名)・刺領巾(サシヒレ。古事記では曽婆訶里(ソバカリ))を呼び寄せ、成功報酬として大臣職を与える事を約束し、住吉仲皇子の殺害を依頼する。このことを知らない住吉仲皇子は、便所に立った一瞬を刺領巾に突かれ命を落とす。その後、成功の報告に来た刺領巾に瑞歯別皇子は、大臣の位を与えるふりをして、宴の最中に、座の下に隠して置いた太刀で刺領巾の首をはねる。

壮絶な人生を選択することになった住吉仲皇子と、仁徳天皇の皇子たち。また四人兄弟の中で、自分以外は全員天皇になり、大きな天皇陵に祀られいるという不運を知ると、人知れずひっそりここに祀られている事に、歴史の残酷さを垣間見ることになる。













posted by 鳥居釣師 at 23:54| Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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